
創業以来良質な国産い草のみを使用し、倉敷市茶屋町の自社工房にて生産。
その道45年の社長自らとその道数十年の職人達が魂を込めてお作りしております。
沖宗の花茣蓙は数々の賞を受賞し、昭和天皇陛下に献上、明治神宮に奉納致しております。
沖宗は、岡山県南部の倉敷市茶屋町早沖(はやおき)にあります。早沖周辺は、旧児島湾の干拓により開墾された土地で、肥沃で少量の塩分を含んだ粘り土はい草の栽培に適しており、江戸時代中期以降からい草の栽培が行われ、農家の副業として畳表が生産され、江戸積として出荷も行われていました。
このような立地の中、家業として畳表の問屋を営んでいた溝手宗吉が独立し、自らが畳表の問屋を営むようになりましました。(現在の社名の「沖宗」という名称は、早沖の「沖」と溝手宗吉の「宗」から採られたものです。)
い草の畳表製造が盛んだったこの辺りで、「花ござ作り」が盛んになったのは明治初期のことです。
明治11年、郷土茶屋町の磯崎眠亀氏が家業の小倉織りから花ござの生産に転向し、梯型筬(ていけいおさ)を発明、 広組縮織(ひろくみちぢめおり)の技法を考案して、繊細な図案の緻密なござを織ること に成功し、錦莞筵(きんかんえん)を開発しました。錦莞筵は、高価だったために国内では売れなかったのですが、 海外で好評を得、錦莞筵は漸次事業化され、最盛期には、織機が1,000台にも達しました。錦莞筵は、当時の日本の貿易に、貴重な外貨を得る産業として大きな業績を残したのです。
しかし、錦莞筵という高級花ござが生産される一方で、安価で一般的な花ござも多く生産されるようになっていきました。
畳表の問屋(沖宗敷物株式会社)も、このような流れの中で昭和初期より花ござを制作を始め、昭和天皇陛下に献上いたしました。
また、輸出用花筵として捺染(なっせん)したものも合わせて商材としていきました。
太平洋戦争中には、中国大陸の邦人用として畳表の生産販売のため上海に支店を持ち、国内共々に営業をしていました。しかし、戦後は、い草の統制が解除されると同時に、問屋ではなく、花ござの生産を重点的に行う会社へと転向しました。
昭和30年に溝手泰平が、花ござ・イ草テーブルセンター・イ草民芸品の製造販売を専業とした会社に移行させ、現在の沖宗の流れを作りました。
私、溝手勝次は、昭和36年末より制作に携わり、その後勤務先を退職し家業に従事し、現在は溝手久弥と共に制作に勤しんでいます。
昭和30年代末ごろより、花ござの需要が次第に増加するとともに、人力による従来の木製の手織り機から、半自動・自動織機へと機械が開発され、ジャガードを乗せ紋紙による柄出しができるようになり、品質が飛躍的に向上し生産量も増えました。
また、手織り花ござも増産のため、40年頃には木製織機も不足していたので自力で織機を製作(3台)した事もあります。
私は、花ござ製造に精力的に取り組む一方で、自動織機の重要な一部分の構造開発に参加し、昭和43年夏には、自動織機による風通織り(俗称:袋織)が完成しました。風通織り(俗称:袋織)は、従来、手織りの織機以外では織ることができませんでした。
私は、デザイン配色等、従来のものにない上質な花筵作りをと、その都度、業界に発表し、現在も明治初期の手織りの錦莞筵を目標に日々努力を続けております。






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